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東京高等裁判所 昭和57年(う)1330号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、検察官の提出した東京地方検察庁検察官検事吉永祐介作成の控訴趣意書、被告人永田洋子につき、同被告人提出の控訴趣意書、弁護人庄司宏、同角田儀平治、同出牛徹郎、同大谷恭子連名提出の控訴趣意書、弁護人庄司宏提出の補充書及び控訴趣意書訂正申立書二通、弁護人瀧内禮作提出の控訴趣意書、被告人植垣康博につき、同被告人提出の控訴趣意書(要旨添付)、弁護人大津卓滋、同冨永敏文連名提出の控訴趣意書、弁護人大津卓滋提出の補充書及び控訴趣意書訂正申立書二通、被告人坂口弘につき、同被告人提出の控訴趣意書及び訂正(控訴趣意書の訂正)の書面、弁護人小林優、同小泉征一郎連名提出の控訴趣意書に各記載されているとおりであり、これらに対する答弁は、弁護人大津卓滋、同冨永敏文連名提出の答弁書、弁護人大津卓滋提出の補充書、検察官提出の答弁書二通(うち被告人永田、同植垣に対する答弁書一四丁裏八行目の「認められるので」を「認められるなど、一連の言動に照らし」と訂正)に各記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一  管轄違の論旨について(被告人永田、同植垣)〈省略〉

第二  理由不備ないし理由齟齬、事実誤認、法令適用の誤の論旨について(被告人永田、同坂口、同植垣)〈省略〉

第三  量刑不当の論旨について(検察官並びに被告人永田、同坂口、同植垣)

検察官の被告人植垣についての控訴の趣意は、要するに、被告人植垣は、周到な計画のもとに現金奪取、ダイナマイト等窃取を実行して赤軍派に資金及び爆弾材料をもたらし、山岳ベースにおいては仲間を残虐な方法で殺害して山中に埋没したほか国有林の盗伐、大量の銃砲、爆弾類の保管など暴力革命を企図した組織的かつ計画的で凶悪な犯行に終始主体的、積極的にかかわり、各犯行において重要な役割を果し、重大な結果を惹起して社会に多大の影響を与えながら、なんら弁償、慰藉の措置を講じることなく、反省も全く認められないことを考えれば、原判決の量刑は著しく軽きに失し不当であつて、無期懲役が相当である、というのであり、

被告人ら及び各弁護人の控訴の趣意は、要するに、本件は被告人らが革命を目指した武装闘争を遂行して行くなかでの所為であり、山岳ベースにおける同志の死も各自が自らに課せられた共産主義化のための総括をなし遂げる過程で生じ、また山荘での銃撃も国家権力に対する銃を軸とした殲滅戦の一つのあらわれとして行われたものであるのに、原判決は被告人らの目指したところを理解せず、また共産主義化のための総括が森の主導によるものであることを考慮することなく、被告人永田につき、同被告人が本件の最高責任者であり、しかも同志殺害を同被告人の個人的資質に基づくものとして、その責任を森よりも重いといい、被告人永田が反省の情を示しているにも拘らず、同被告人を死刑に処したのは刑の量定が著しく重く、被告人坂口につき、同被告人はクアラルンプール事件での日本赤軍からの出国要請を拒否し本件審理に応じているもので、出国要請に応じた坂東と対比すれば被告人坂口を極刑に処するのは極めて不当であり、しかも同被告人が武装闘争路線の誤りであることを自省し被害者に深甚な哀悼の意を表わしているほか母親の心情をもあわせて考えれば、原判決の量刑は重きに過ぎ、被告人植垣につき、同被告人は坂東隊の有能な兵士として行動したもので、山岳ベースにおいても森の指示を忠実に実行したに過ぎず、山本、大槻、金子及び山田への総括要求には殆んどないし全く関与していないのであつて、原判決の量刑は未決勾留日数を全部算入しなかつた点をも含めて不当である、というのである。

そこで原審記録及び証拠物を調査し当審における事実取調の結果をも参酌して検討する。

本件は、昭和四〇年代のベトナム戦争を廻る内外情勢の中で、国内における学生、労働者を中心として所謂反戦平和を唱える行動が活溌化し、学生による大学内の諸問題についての活動と相俟つて、街頭デモ、ビラ宣伝活動を超えた鉄パイプ、火炎びん、更には爆弾を使用しての暴力的な形態を帯びた運動が連続していた中で、昭和四四年九月四日頃から昭和四七年二月二八日にかけての間において被告人らがそれぞれ原判示の如く、

(1)羽田空港に侵入して滑走路上に火炎びんを投擲し航空の危険を生じさせた航空法違反、威力業務妨害(被告人坂口)

(2)真岡市内の塚田銃砲店において散弾銃一〇丁、空気銃一丁、実包などを強奪し家人を負傷させた強盗致傷及びその際の自動車窃取(被告人永田、同坂口)

(3)振興相互銀行黒松支店での現金一一五万九二〇〇円を強奪し行員に傷害を負わせた強盗致傷、横浜市立南吉田小学校前での教職員給料現金三二一万六五三九円の窃取、横浜銀行妙蓮寺支店での現金四五万円の強奪及び長野県内でのダイナマイト一〇本などの窃取(以上被告人植垣)

(4)早岐やす子、向山茂徳の各殺人及び死体遺棄(被告人永田、同坂口)

(5)山岳ベースでの尾崎充男に対する傷害致死、加藤能敬、小嶋和子、進藤隆三郎、遠山美枝子、行方正時、寺岡恒一、山崎順、山本順一、大槻節子、金子みちよ、山田孝の各殺人及び死体遺棄(被告人永田につき山田の死体遺棄を除くその余、被告人坂口につき全部、被告人植垣につき遠山以下の殺人及び山崎を除く死体遺棄)

(6)迦葉小屋建設のために保安林区域内の立木合計一〇二本を伐採した森林法違反(被告人永田、同坂口、同値垣)

(7)手製爆弾などを籠沢洞窟から若草山を経てあさま山荘まで所持した爆発物取締罰則違反(籠沢洞窟において被告人永田、籠沢洞窟から若草山において被告人植垣、籠沢洞窟からあさま山荘において被告人坂口)

(8)散弾銃、ライフル銃、拳銃及び実包などを籠沢洞窟から若草山を経てあさま山荘まで所持した銃砲刀剣類所持等取締法違反及び火薬類取締法違反(籠沢洞窟において被告人永田、籠沢洞窟から若草山において被告人植垣、籠沢洞窟からあさま山荘において被告人坂口)

(9)籠沢での警察官に対する殺人未遂及びやすり製よろい通しを所持した銃砲刀剣類所持等取締法違反(被告人永田)

(10)軽井沢駅での警察官に対する公務執行妨害及び傷害(被告人植垣)

(11)さつき山荘への住居侵入、警察官に対する公務執行妨害及び殺人未遂(被告人坂口)

(12)あさま山荘への住居侵入及び牟田泰子監禁(被告人坂口)

(13)あさま山荘での銃撃による警察官高見繁光、同内田尚孝及び田中保彦の殺人、警察官一五名、報道記者一名に対する殺人未遂、爆発物取締罰則違反、公務執行妨害(被告人坂口)

の各所為に及んだというもので、その訴因は被告人永田につき三七、被告人坂口につき五五、被告人植垣につき二九を数え、そのうち殺傷に及んだものは被告人永田の関与するもの殺人一三名、傷害致死一名、殺人未遂一名、強盗致傷一名、被告人坂口の関与するもの殺人一六名、傷害致死一名、殺人未遂一七名、うち五名については爆発物取締罰則違反を伴うものであり、そのほか強盗致傷一名、被告人植垣の関与するもの殺人八名、強盗致傷一名、傷害一名であり、更に植垣は三回、合計して現金四八二万余円を、被告人永田、同坂口は散弾銃一〇丁などの銃及び多数の実包を奪取するなどした事案である。

以下所論に即してその主要な事犯につき犯行の態様及び犯情をみると次の如くである。

一  羽田空港突入事件について(被告人坂口)

本件は、革命左派最高指導者の川島豪がベトナム戦争阻止のための行動として昭和四四年九月四日羽田空港から出発する愛知揆一外相の訪ソ訪米を実力で阻止することを提案したのを受け、被告人坂口が決死隊を募り自ら隊長となつて、ほか四名と共に警戒の手薄な海上から羽田空港に侵入したうえ、大型航空機が頻繁に離着陸に使用中のC滑走路上に点火した火炎びん二本を投擲して炎上させると共にガラス瓶の破片を散乱させたことにより、折柄C滑走路を使用して相次いで着陸または離陸しようとしていた多数の航空機に対し衝突、接触、失速、滑走路からの逸脱、火災などの事故発生のおそれのある状態を作り出して航空の危険を生じさせ、同滑走路上に着陸し進行中の日本航空株式会社運航の航空機(ダグラスDC8型)をして火災の直前で転回、逆進の緊急操作を余儀なくさせ、また離陸のためC滑走路に向け移動中の愛知外相塔乗機をも停止のやむなきに至らせると共に、ガラス瓶破片掃除などの安全確保処置のため同空港航空管理官のとつた一七分間にわたる全滑走路閉鎖の措置によつて多数の航空機の離着陸を約六分ないし二九分間遅延させ、威力で同空港の発着業務及び航空機運航業務を妨害したもので、その所為は悪質というほかなく、それが正当であるとの所論が採用できないことは前叙のとおりであつて、隊長として周到な計画と準備のもとに右犯行を主導し、かつ率先して実行に当つた被告人坂口の刑責は重いものといわなければならない。

二  真岡猟銃強奪事件について(被告人永田、同坂口)

本件は爆発物取締罰則違反によつて逮捕勾留中の革命左派最高指導者川島豪が実力による自らの身柄の解放を被告人坂口に暗示したのに端を発して、被告人永田、同坂口ら同派の常任委員の間で協議のうえ川島奪還の方針を打ち出し、次いで党会議での確認を得、被告人坂口を最高責任者としてその実行に当ることになり、前示第二の二に記載した如く、銃による直接奪還を企て、被告人永田の指示で各所にアジトを設け、メンバーの分散、潜伏をはかつたうえ銃砲店から銃を奪取することに決め、店の構え、規模、人的構成、付近の交番の所在などについて調査を重ねた挙句、真岡市内の塚田銃砲店に目をつけ、寺岡、吉野らの調査結果に基づいて被告人坂口が中心となり被告人永田も加わつて、六名の実行メンバー、実行の方法及びその分担、奪取後の行動、川島の公判期日に合わせた実行の日時などにつきその都度協議を重ねて銃奪取計画を決定した後、実行前夜には家人を縛りつける予行演習までして実行に及んだという組織的、計画的な犯行であり、深夜、夫婦及び子供の一家四人が就寝中の住居内に変装した六名の者らが各自包丁を携えて突如侵入し、用意持参した麻ロープで店の主人を縛り上げ、次いで妻にも包丁を突きつけて脅迫したうえ縛り上げたにとどまらず、更に六歳の男児及び五歳の女児の手足をもロープで縛つて目と口に同じく用意のガムテープを貼りつけ、これら四名の家人を一個所に転がしてその上に布団をかぶせるという容赦のない暴行を加えたうえ、手分けして散弾銃一〇丁、空気銃一丁、少なくとも二〇〇〇発を超える散弾実包などを強取し、かつその際店の主人に全治二週間の傷害を負わせたほか、幼児らは事件の恐ろしさのため以後一人では寝起きできなくなるなど、物心両面の被害を蒙らせ、また社会にも言い知れぬ不安を与えたもので、それ自体不法な目的を実現させるため特定の市民を狙つて行われた無法な所業というべきものであり、これに対して直ちに捜査当局の追求がなされるに至つたのは至極当然のことである。

しかるところ、この追求を受けることによつて、始めの川島奪還という目的は忘れ去られ、銃と実包を手に入れたことは被告人永田、同坂口らが以後革命左派の行動方針を銃を軸とした武装闘争路線に決定する要因となると共に、捜査当局の追求を逃れるため山岳にベースを作り、ベース離脱者が出ると、ベースが発見され逮捕につながるとしてこれらの者を敵対者とみなし殺害するに至り、またこの銃奪取の行動を森が賛美し、これを指導した被告人永田を高く評価して、これが両派統合の契機となり、ひいては殴打、緊縛を伴つた総括要求となつて、以後の殺害の底流を形成し、更には手にした銃などは、さつき山荘、あさま山荘において警察官らを銃撃する武器として使用されるなど、本件犯行の及ぼした影響も大きいものがある。

所論は、被告人坂口の刑責に関して、同被告人は川島による党組織上の指令に従つたもので責任の過半は川島にあり、また被告人永田の刑責に関して、本件の実行行為自体は軍指導者の寺岡が担当し被告人永田は単に報告を受けたにとどまるもので、右実行を精神的に支えたという政治指導上の誤りについて責任を負うに過ぎないというが、右所論が理由のないことは前示第二の二に記載したとおりである。

被告人永田は、川島奪還計画推進の過程において、常任委員、次いで常任委員長として自己の指導体制を固め、川島奪還方針の決定にかかわり、そのための銃奪取を打ち出したうえ、メンバーを潜行させる指示、アジト設定費用の支出など準備万端を取り仕切り、計画責任者の被告人坂口及び実行担当者の寺岡らから調査の結果及びこれに基づく計画立案の経過につき報告を受けると共に、その都度被告人永田自らも銃砲店の選定、実行メンバーの人選、実行方法などについて具体的に意見を述べるなどして協議し、また覆面に用いる靴下を購入したりしているほか、犯行後捜査当局の追求を逃れるため逐次指示を発して逃走を全うするなど、本件犯行において積極的かつ中心的な役割を果しているのに徴すれば、被告人永田の刑責は重いものといわざるを得ない。また被告人坂口は、銃奪取の最高責任者として計画を終始積極的に推し進め、実行に導いたものであつて、当審において自分達の利益のために犠牲もやむを得ないとしていた思い上がりを反省して謝罪文を送り改悛の心情に立ち至つているものの、その刑責はなお重いものがある。

三  金融機関強盗等及びダイナマイト窃取事件について(被告人植垣)

本件は、被告人植垣の所属していた赤軍派坂東隊がその任務として分担した爆弾製造に当り、そのための資金が中央から思うように送られて来ない状況のもとで、被告人植垣が提起して金融機関から現金を強奪する、いわゆるM作戦を坂東隊として敢行することに決め、被告人植垣が主導して計画を立て、先ず振興相互銀行黒松支店において出刃包丁などで行員を脅迫したうえ現金一一五万九二〇〇円を強取し、次いで南吉田小学校教職員の給料三二一万六五三九円を銀行から運搬する途中で窃取し、更に銃を使用して横浜銀行妙蓮寺支店内で現金四五万円を強奪し、また爆弾製造の材料を調達するため工事現場からダイナマイトなどを窃取したもので、これらの犯行を通じて、被告人植垣は、自ら中心となつて襲撃する店舗の規模、警察署からの距離、撤退の経路、そのほか現金を運搬する小学校職員の特定、更に火薬庫の所在場所などにつき調査を行ない、また実行の分担、逃走用自動車の調達、逃走後逃げ込むアジトの設定などを決め、金庫の扉が閉められるのを防ぐためにさし込む竹の物差まで用意するという周到な準備のもとに綿密な計画を立て、かつ自らも率先して実行に加わつて、白昼営業中の店舗内や公道上で現金奪取に及び、その総額は金四八二万余円に達するほか、振興相互銀行黒松支店での犯行に際しては被告人植垣の所持していた出刃包丁によつて行員に全治三一日間を要する傷害を負わせ、また横浜銀行妙蓮寺支店においては坂東が銃を構えて行員のみならず多数の客にも著しい恐怖の念を抱かせるという犯行態様で、本件犯行が社会に与えた不安も看過できないところがある。

所論は、本件が軍としての行動であり、被告人植垣は一人の軍人として綿密な計画を立て大胆に、ときには武器を用いて目的を達成するのは当然であつて、最も忠実に任務を遂行した革命兵士の行為であるというが、本件犯行は平穏な営業や社会生活の秩序を攪乱して自らの目的を遂げようとしたもので、いやしくも民衆の利益を標榜して行動する者にそぐわぬところであり、赤軍派内部においても青砥幹夫が原審において、M作戦は正しくない闘争であり、それをすることによつてわれわれが成長して行くものではなく、流賊主義を生み出すことになつたと指摘しているのは当然のことであつて、本件について強盗罪の適用がないとか、任務に忠実な革命兵士の行為であると評価すべきであるとかいう所論は採用できない。

以上、右犯行を提起し、その中心となつて周到な準備のもとに計画を推し進めたうえ自ら率先して実行に及び、多大の被害を与えながら、今日に至るまでなんら償うところのない被告人植垣の刑責は重いものといわざるを得ない。

四  印旛沼殺人事件について(被告人永田、同坂口)

本件は、被告人永田、同坂口が寺岡、吉野らと共謀のうえ、山岳ベースから離脱した早岐やす子、向山茂徳の両名を殺害し、その死体を埋めて遺棄した、という事案であつて、その態様は前示第二の四に記載のとおりである。

被告人永田、同坂口が右両名の殺害を決意するに至つたのは、前示第二の四に説示した如く、両名の離脱後の言動により山岳内のアジトが発覚して被告人永田らの逮捕に至るという危険に対し組織防衛上の見地から出たものであるというにとどまらず、被告人永田が党内の反対を抑えて進めて来た党指導の方向が向山、早岐の離脱によつて再び思うに任せない事態に至つたことへの苛立ち及びそのような事態を生じさせた両名に対する怒りと憤りに起因するものでもあつて、被告人永田は、被告人坂口及び寺岡との協議において激怒を混えた心情から両名殺害の方向を提起し、また被告人坂口も被告人永田が右の如き激怒の心情から両名殺害の方向に走るものであることを知りながら被告人永田の提起に同意して、被告人永田、同坂口は両名殺害を決め、そのうえで前叙した如く殺害方法について協議を重ね、かつ被告人坂口は寺岡の早岐殺害をためらう心情を一蹴して計画どおりの実行を促がすなどして寺岡、吉野、瀬木らによる両名の殺害に至つたものであり、その犯行の態様は早岐、向山のいずれに対しても、計画を気付かれないように女性の仲間を使つてアパートの部屋に呼び出し、交歓を装い睡眠薬を盛つた酒をすすめ、殺害されるとは露知らずにいるこれらの者の前に女性メンバーと替つて現われた寺岡、吉野、瀬木らが絞殺するという騙し討ちの方法で犯行に及んでいて、これを被害者側からみると、まず早岐については離脱したものの、前示の如く公然面で引き続き活動したい意向であることを金子に述べているほか、早岐吉子の司法警察員に対する供述調書によれば、同女は几帳面で自分のことは必ず自分でやりのける性格であるうえ、在学中及び以前公然面で積極的に活動していたというのであることをもあわせ考えると、下山後早岐が被告人永田、同坂口らの危惧するような行動に出るものではなかつたことが窺えるのに、信頼できる仲間と考えてウイスキーを共に飲んで酔つたところを自動車の中に連れ込まれ、車中に乗り込んで来た寺岡、吉野、瀬木らに気付いて「欺されたわ」と言つて涙を流すうち、深夜印旛沼の堤防上で右三人の男らに殴打、絞扼されて生命を奪われるという非情にして冷酷な仕打ちに遭い、また向山についても、向山幸子の司法巡査に対する供述調書、向山光の司法警察員に対する供述調書の内容からみれば、向山に裏切り行為などを推測させるような言動などはなく、新しい生活を始めた矢先に、仕返しはしないと信じていた仲間らに不意をつかれる形で生命を断たれるという非情にして冷酷な仕打ちを受け、しかも両名共に身元を隠すために衣服をすべて剥ぎ取られ、何の回向も受けることなく雑木林内の土中に埋められたものであつて、これら両名の無念な心情及び厳重な処罰を求める遺族の心情は十分首肯できるところである。加えて本件犯行の社会に与えた衝撃、人心に及ぼした影響は多大であるというべきである。更に両名の殺害は、被告人永田、同坂口自身をして人命を尊重し敬愛する念を稀薄化させると共に、被告人永田の提唱を受けて両名殺害を実行するに至つた寺岡、吉野ら及びその際車両を運転して右殺害行為に加担した小嶋をして最早それまでのように被告人永田の行動を批判することのできない立場に追い込み、また早岐、向山を処刑すべきであると言つていた森に重い影響を与え、それが後の遠山批判を受け入れ、ひいては山岳ベースでの総括要求による殺害の素地を作つたものとして看過できないものがある。

以上の如き早岐、向山両名殺害に至つた動機、意図、犯行の計画性、被告人永田、同坂口の犯行に対する積極的なかかわり、二名の者を殺害したという犯行の重大性、犯行の態様、遺族の心情及び社会に及ぼした影響などを考えると、被告人永田、同坂口の刑責は極めて重く、なかでも本件犯行を党指導者として提起し、その計画を主導して実行に至らしめた被告人永田の責任はとりわけ重大であるというべきものであつて、原判決が被告人永田について向山茂徳殺害の罪の所定刑中死刑を選択したことに不当とすべきところは存しないものといわなければならない。被告人坂口は、原審において実行行為者よりそれを指示した自己の責任が重いことを述べ、当審において遺族に対し謝罪する文を送付するなどして被告人永田よりも反省していることは認められるものの、なお二名の殺害についての刑責は重大である。

五  山岳ベースについて(被告人永田、同坂口、同植垣)

本件は革命左派及び赤軍派の者らが昭和四六年一二月下旬から昭和四七年二月中旬にかけての間に、山岳内の榛名、迦葉及び籠沢の各ベースにおいて、尾崎充男を死に致し、進藤隆三郎、小嶋和子、加藤能敬、遠山美枝子、行方正時、寺岡恒一、山崎順、山本順一、大槻節子、金子みちよ、山田孝の一一名を殺害して、その死体を遺棄したもので、被告人永田、同坂口は右一二名の致死と殺害の犯行のすべてに及び、また被告人植垣は遠山美枝子以下八名の殺害にかかわつたものである。

右一連の犯行に対する被告人永田、同植垣のかかわりについては第二の(一)ないし(二)に前叙したとおりであり、被告人坂口についてみるに、関係各証拠によれば、被告人坂口は、山岳ベースにおいて革命左派の指導部、次いで結成された連合赤軍のCCの各一員であり、かつ森、被告人永田に次ぐ地位にあつて、前示一連の犯行に当り、森、被告人永田によつて総括要求に殴打が導入された際、加藤の女性に対する不道徳な行為への怒りから他に方法はないということでこれを承認し、森、被告人永田らと意思相通じて右犯行に加わつたものであるが、被告人坂口の所為を各被害者毎にみると、尾崎については、格闘の名のもとに同人を殴打したのみならず、その後の殴打、緊縛に直接手を下し、加藤、小嶋、進藤に対しては直接殴打、緊縛に加わり、行方についてはこれを殴打し、遠山については殴打、緊縛に直接手を下してはいないものの、遠山が進藤を殴りかねているのをCCとして被告人永田らと共に促がして殴らせ、また遠山に小嶋の死体を運ばせるとの被告人永田の提案に同意してその監視をしたり、被告人永田が遠山自身にその顔面を殴打させる提案をするとこれに同調したりするなど、森及び被告人永田らの遠山に対する総括要求について意思相通じていたものであり、寺岡に対しては、晒し布で頸部を絞扼する行為に加わり、山崎についても、追及の過程で同人を殴打したほかアイスピックで大腿部を突き刺し、更に頸部を晒し布で絞扼する所為に加担し、山本については、自ら同人を摘発したうえ、森、被告人永田の指示で殴打、緊縛して放置したことにより殺害するまでに至り、大槻については、総括を求めるため同人を迦葉小屋建設に参加させず榛名に残すことに賛同し、一月二六日榛名ベースにおいて大槻が金子と共に縛られているのを見、森、被告人永田から縛つた理由を聞かされて、大変なことを告白したと思いその措置を容認し、迦葉ベースに戻つて他のメンバーにそのことを知らせ、縛られたまま迦葉に運ばれて来た大槻のほか金子、更に雪の上のテント内の山本を手分けして迦葉小屋の床下に運び込むのに加わり、大槻殴打の提案に賛成して殴打すべきことを大声で叫び、金子に対しては、大槻と同じく金子を榛名に残すことに賛同し、榛名ベースにおいて同女を手で殴打したほか、迦葉ベースに縛られたまま運ばれて来た金子を大槻の場合と同じく手分けして迦葉小屋の床下に運び込むのに加わり、胎児取出しの方針に従い床下から小屋内に運び入れるのに加担し、山田については、当初の殴打、緊縛に加わつたほか、森、被告人永田の上京後は責任者として、いつたん緊縛を解いたが、ベース移動に際して再緊縛をしたのを継続させ放置して殺害するに至つていることが明らかである。

そして、被告人らが右一連の犯行に至つた経緯についても前叙のとおりであつて、これを要約すると、党派主義的な意図で行なつた被告人永田の遠山批判を森が観念操作して独自の共産主義化の手法、すなわちメンバーの日常生活や過去の行動の中に表われたプチブル個人主義などの問題点を指摘して相互批判―自己批判しこの批判の過程を通して革命戦士への変革を遂げることができるといい、これを革命左派と赤軍派の合体によつて進めて行く新党建設の中核に据えることを提唱すると共に、被告人永田こそ真の共産主義者であると持ち上げ、また革命左派の川島豪を批判する反面で被告人永田の活動、殊に真岡での銃強奪以後の行動を評価して共産主義化の道を歩んでいると賞賛し、被告人永田も森の提唱に傾倒、共鳴して、一二月二二日頃榛名ベースにおいて森と被告人永田が所謂「我々」になりメンバーの批判を始めると共に新倉の赤軍派メンバーをも榛名に集結させるに至つたのであるが、この批判をするなかで前叙の如く被告人永田が加藤と小嶋の接吻を言い立てたのを契機として森と被告人永田により加藤に対する殴打、緊縛の暴力が導入され、食事を与えず、用便もその場で済まさせる状態にして放置するという追及の態様を作つて、殴打、緊縛を集団による制裁へと転化させ、こうした態様を前叙した経過で繰り返し続けることによつて、衰弱による凍死という状態で一名を死に致らせ、九名の者らを殺害しながら、殴打を新しい指導とか同志的援助であるとか言い、また敗北主義、日和見主義との闘いであるとか言つて正当化し、或は明らかに殴打ないし緊縛による死亡であるのに、これを自ら選んだ敗北死であると規定し、他方ひとたび殴打、緊縛に加担した者をして、自らが総括を求められることとなつたとき加えられる暴力を甘受せざるを得ない立場に立たせてメンバーを深みに陥れ、更に寺岡、山崎の二名については殴打、緊縛を越えて死刑を宣しナイフ、アイスピックを使つて殺害したもので、これら総括の対象となつた者は前叙の如く過去において森、被告人永田に対する批判者であつたり、対抗する者、或は意にそわない者などであつて、これらの者に対する追及の方法も、過去の言動を素材にして予め答えを準備しておき、その答えにそわない限り納得せず、これにそう答えをすると、それを理由に殴打、緊縛を加えるというもので、これがため対象とされた者らは何を答えたらよいのか分らず窮地に追い込まれるという過程を辿るほかないものであつたうえ、被総括者は追及に耐えかね或は反省の気持から過去の行為や内心を自己批判のつもりで心ならずも告白すると、これがまた次の殴打、緊縛の理由とされることになり、いずれにしても追いつめられ窮地に立たされて結局殴打、緊縛を免れることができず死に至るのほかなく、しかも総括の成否については、被告人永田自身が森から繰り返し総括要求される中で生き生きとして元気になるという態度をとることは非常にむつかしかつたと言い、森も、総括し切つたかどうかは私と永田の二人で判断し、二人の間に意見の異なつたことはなかつたが、具体的な基準があるわけではなく、その意味で判断が恣意的になされていたと述べていて、結局は森と被告人永田の見方一つにかかつていたものであり、以上によれば被総括者の死に対する責任は先ず森と被告人永田が負うべきものであるといわなければならない。

所論は、本件が森の主導によるものであり、かつ当時の山岳ベースの状況下ではメンバー各自が共産主義化の必要を考え総括要求に対してもこれを積極的に受けとめ総括をなし遂げようとしていたもので、森及び被告人永田のみに帰責することはできないというが、右所論の採用できないことは前叙のとおりである。

而して被告人永田が被害者らにとつた言動は各被害者毎に前叙したとおりであつて、これらの言動からみても、総括要求は、その実体において、森が提唱し被告人永田が共鳴したところの革命運動を目指した共産主義化のための総括というのとは乖離した色合いのものとなつていたといわざるを得ない。

一方、被害者の状況についてみると、前叙した如く、一二月下旬以降厳寒の山岳内において、煖をとることも、また身体を動かして寒さを防ぐことも許されず、体を保つに必要な食事の供与も受けられず、はたまた寒さを防ぐに十分な衣料の提供も受けることなく、加えて下半身を用便で濡らしたままの状態で緊縛、放置され、厳しい寒さと飲食物を摂取できないことによる体力の衰弱に耐えられずに身体の失調を来たして凍死するという悲惨な経過を辿り、また処刑と称して殺害されたのであつて、この間前叙の如く一方的で容赦なく苛酷な殴打を受けているところ、前叙したところのほか関係証拠によつて認められるこれらの者の死亡するに至る場面をみると、尾崎は、数日間にわたる緊縛の中で空腹の余り「すいとん」と口走つたことで甘えているとみられて縛られたまま腹部に殴打、膝蹴りを受けて自力では立てない状態に陥り、その二、三時間後に死亡し、小嶋は、同じように空腹から、ミルクをあとでもう一杯頂戴、と言つたが、このことが総括する態度でないとされ、ひいては目隠しをされるという仕打ちを受けて間もなく死亡するに至り、また加藤は、殴られて目をあけていられない状態になつていたのに、森から目をあけてしつかり見ろといわれ、しばらくして頭を垂れて死亡し、遠山は「小嶋のようになりたくない、死にたくない、美枝子頑張る、お母さんをしあわせにしてあげる、革命戦士になるわ、お母さんのために頑張るの」と呟いたことから闘争へのかかわりが個人主義的であると批判され、好きだつた男性として森の名を挙げたことで被告人永田の反感を買つて厳しい殴打のうえ両足の間に薪を挾まれ逆えび形にして縛られるという屈辱を加えられて放置され、そのあとひつそりとした状態で死亡し、行方は、緊縛のうえ放置されて衰弱しているところを更に殴られ、瞳孔が拡がりかけているのに再び殴打、緊縛のうえ放置されて、うわ言を言いながら死亡し、山本は、殴打されて雪の上のテントの中に縛られ、しがみつく妻保子の頭に自分の頭を押しつけてうなだれ小屋の床下で呻き声を出し、畜生、と呟くことで僅かに不当な仕打ちへの抗議をもらすうち間もなく死亡し、妊娠八ケ月の金子は、子供の私物化を許さないとの理由で胎児を取り出すという非道な考えのもとに、眠つてしまうと取り出そうとしている胎児に異常があつてもわからないということで、眠らさないように監視されるなかで死亡し、山田は、凍傷で固くなつてしまつた両足を見て、切断するしかない、と淋しく言い、総括しろだつて、畜生、といいながら絶命し、また進藤は、肝臓が破裂するほどに腹部を殴打されて生命を断たれ、寺岡は、被告人永田を批判した過去の言動を言い立てられ分派主義者として左胸部を一〇ケ所にわたつてアイスピックで刺され、山崎は、アイスピックで刺され、更に心臓をえぐるようにナイフをさし込まれて、寺岡は「革命戦士として死にたかつた、残念だ」といい、山崎も「革命戦士になりたかつた、死にたくない」と訴えるのに、いずれも首を絞められ殺害されているのであつて、これらの者の受けた精神的及び肉体的苦痛は察するに余りあるものがある。

加えて、これら生命を断たれた者らは、森及び被告人永田によつて敗北死であるときめつけられ或は死刑に処せられたうえ、何の回向を受けることもなく、身元を隠す意図のもとに衣服を切り裂き剥ぎ取られ、雪の山中に埋められ遺棄されるという有様で、死後においてまで不当な処置を受けており、後に堀り出された遺体は土にまみれ腐敗して無残な姿に変りはてていたが、それでもなお顔面を始め身体の各所に皮下出血、更には刺傷、索溝がみられて、加えられた暴行の凄まじさをとどめ、またむき出した歯の間からは舌先が出ている者さえあるという無念のただようものであつたが、わが子をこのような姿で失いながら、わが子自身の犯した罪状の故に被害感情をあらわに訴えることもできずにいる親達の心情は悲痛であり、遠山幸子は検察官に対する昭和四八年四月一七日付供述調書において「あの人達は人間として人を愛する気持を持つて欲しいと思う」「あの人達は自分一人だと思つているかも知れないが、決して人間は自分一人でないことを知つて欲しい、本当にかけがいのない生命の尊さをわかつて欲しいと思つている」と述べているところ、この心情は右供述の時から年月を経過した今においてもなお至極当然の気持といえる。

以上を考察すると、被告人らの刑責は重大であるといわざるを得ず、被告人永田の刑責は殊に重大であり、原判決が本件犯行における被告人永田の所為、その果した役割に鑑み、同被告人について寺岡恒一及び山崎順各殺害の罪につき所定刑中いずれも死刑を選択したことに不当とすべきところは存しないものといわなければならない。

次に、被告人坂口についてみるに、同被告人は、革命左派内において被告人永田に次ぐ地位にあり、かつ連合赤軍の中央委員でもあつたところ、前叙の如き各所為に及び、しかも森、被告人永田と意思を相通じて本件犯行に深くかかわつたものといわざるを得ない。もつとも被告人坂口は、森及び被告人永田の勢力に押され、或は自らの保身のためこれに従つたという傾きが窺われ、また自ら尾崎との格闘を申し出たのは同人がすでに殴打、緊縛されている加藤の二の舞にならないようにするためであつたといい、寺岡に対しては左胸部を刺さなかつたことを森から指摘を受け、そのことが山崎をアイスピックで刺す動機となり、遠山、大槻に対する追及では被告人坂口自らは直接殴打、緊縛の手を下してはいないし、山田に対しては縄をいつたん解いた際、両足が凍傷で固くなつてしまつているのを見て憐憫の情を抱き湯で温めてやるなどするなかで、きみの生命は助ける、と明言するなどし、更に遠山死亡の際には被告人永田が会議の場に戻ろうとしたことについて「お前は薄情だ、お前の態度は真剣じやない、遠山が亡くなろうとしているのに、お前はどこに行く気だ、一体人の命をなんと思つているんだ」と言つて被告人永田を難詰し、行方死亡後は縛られている者がいなくなつて総括要求が終息したと思い、ほつとするなど、森及び被告人永田による殴打、緊縛の継続に必ずしも心底から左袒していたものではないとみられる行動がないわけではない。しかしながら、被告人坂口は前示の如き党内での地位を占め、また被告人永田と夫婦の関係にあつた者でもあつたのに、森及び被告人永田、殊に森に反抗する勇気も論破する力もないとして自らの努力を放棄し、事態改善の行動に出ないまま本件を推移させてしまつているのであつて、一名を傷害致死に至らせ一一名を殺害するなどした被告人坂口の責任は、同被告人及びその意向を受けた母親によつて被害者の遺族に対し慰藉の努力が重ねられていることを斟酌してもなお重大であるというべきものである。

更に被告人植垣についてみるに、同被告人は一月二日榛名入りし、以後八名の者らに対して前示の如き殺害の犯行に及んだものであるが、そのかかわりの態様は前叙の如くであつて、強烈で容赦のないものであり、就中寺岡に対する刺突及び絞扼、山崎に対する刺突によつて両名を殺害するのに直接関与している責任は重大である。所論は、被告人植垣が、森、被告人永田との間に共同の意思はなく、またあとから榛名に入つたもので被告人植垣には共産主義化の闘いの当否を判断する基準も時間的余裕もなかつたといい、更に寺岡、山崎に対する所為は同志として同人らが苦しむのを早く楽にしてやりたいとの心情から出たものであり、大槻、金子に対しては全く実行行為に出ておらず、行方、山田には食事を与えている、というが、右所論が容れられないことは前叙のとおりであり、森及び被告人永田らとの共犯の責任は免れず、八名殺害などの犯行に及んだ被告人植垣の刑責もまた重大であるといわなければならない。

六  籠沢殺人未遂等事件について(被告人永田)

本件は、森と共に迦葉から上京中の被告人永田が、前沢、次いで山本保子の離脱により妙義に移動したメンバーに合流するため籠沢洞窟に赴いたところを検索中の警察官に発見され、前叙の如く森と意を相通じ警察官を殺害してでも逮捕を免れようとして、森は登山ナイフを、また被告人永田はやすり製よろい通しをもつて警察官らに立ち向つて行き、森が吉崎進巡査部長の左胸部付近に登山ナイフを向けて体当りし、更に仰向けに倒れた同巡査部長に馬乗りになつて顔面に登山ナイフを突き刺そうとしたのを同巡査部長が辛うじて防ぎ逃れたことで殺害を遂げるには至らなかつたものの、上腕部に全治二週間の切創を与えるなどしたもので、被害が右の程度にとどまつたのは同巡査部長がジュラルミン製の防護衣を着用していたのによるものであることを考え併せると、犯行自体極めて危険なものであり、森と意を相通じていた被告人永田の刑責も軽視できないところである。

七  さつき山荘殺人未遂等事件について(被告人坂口)

本件は、被告人坂口がほか四名の者らと共に捜査当局の追求をのがれて妙義山中から軽井沢レイクタウン別荘地付近の若草山に到つたが、更に身を隠すため目に入つたさつき山荘の雨戸をこじ開けて不法に侵入したうえ、雪上の足跡を追つて来た警察官に対して、自らは拳銃を手にし、他の者にも銃をとることを命じ、これによつて警察官を殺害してでも脱出、逃走を図るとの共謀のもとに、山荘内部の確認及び職務質問のため近づいた町田勝利巡査部長、大野耕司巡査ほか二名の警察官に向つて山荘及びその附近から銃撃を加え、大野巡査に全治三週間を要する傷害を負わせた住居侵入、公務執行妨害、殺人未遂の事案で、弾丸は大野巡査の顔面、左手に命中しているほか、町田巡査部長のヘルメットにも当つており、発砲が所論のいう如き殺意なく単に逮捕を免れ逃走するための抵抗にとどまるというものではなかつたことは第二の七の項に示したとおりであつて、右の如く自らの主導により他の者らと意を相通じての犯行についての被告人坂口の刑責は軽視できないところである。

八  あさま山荘殺人等事件について(被告人坂口)

本件は、被告人坂口が、坂東、吉野、加藤倫教、元久と共に警察官の追跡から逃れるため、二月一九日午後三時半頃あさま山荘内に不法侵入し、管理人の妻牟田泰子を監禁して同月二八日午後六時二〇分頃逮捕されるまで一〇日間にわたり立て籠り、その間被告人坂口らの逮捕及び泰子救出に当る警察官を殺害してでも抵抗する共同意思のもとに、拳銃、ライフル銃、散弾銃で銃撃し、また手製爆弾を投擲するなどして、それらの所為で警察官二名を含む三名の者を殺害し、警察官一五名及び報道記者一名に対しては未遂に終つたものの失明を伴うなどの重傷を含めた原判示のとおりの傷害を負わせたという住居侵入、監禁、殺人及び殺人未遂、爆発物取締罰則違反、公務執行妨害などの事案である。

被告人坂口は、坂東ら四名の者と共に先にさつき山荘において警察官に発見され、同山荘から脱出して逃れる途中、皆の者が籠沢以降の日夜を分たない逃避行で疲れ果て、食糧も途切れ、自らも右の靴を被告人植垣に貸していて靴代わりにタオルを巻く有様で、再び山中に入る余力はなく、また車両を奪つて逃げのびるという吉野の提案も到底実現できないと判断し、付近の山荘に入ろうとして目についたあさま山荘に向つて走り、近づいてみると人の気配を感じたので、住人を人質にとり逮捕された森、被告人の永田らの釈放と自分らの逃走を保証させようとの考えのもとに同山荘に不法侵入し、管理人の妻の泰子を脅迫してベッドルーム内に縛りつけ、山荘内要所に家具、畳類を用いてバリケードを築いて抗戦態勢をとり、吉野が山荘に居ては警察官に包囲されるので車を奪つて逃げるか山に入ろうというのを前叙の理由を挙げて斥け、これに坂東らも同調し、吉野も結局被告人坂口に従つて山荘に立て籠もることに決め、泰子を取引の材料として使う案は吉野の反対や坂東の同意も得られないことで撤回したものの、「徹底抗戦をする。一日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、一日でも長く抗戦を続けることに意義がある」との決意を述べて、他の者らの同意を得、更にバリケードの強化を指示して、泰子については二〇日昼頃解縛したが解放することなく被告人坂口自らが終始傍らにあつて監視し続けることにより結局人質として利用し、泰子救出及び被告人坂口ら逮捕の職務を執行する警察官に対して発砲を重ねたもので、本件は被告人坂口が主唱し、かつ主導したものであるといわざるを得ない。

しかも警察官らに対する犯行の態様についてみるに、関係各証拠によれば、その経過の概要は次のとおりである。

あさま山荘は山腹の北側斜面に建てられ、南側を走る道路が三階建山荘の屋根の高さに位置して、玄関は南側道路から下つて行つた三階部分にあり、右玄関に続いて管理人室、厨房、談話室、ベッドルームも同じく三階に存し、また山荘の北側は地面からそそり立つコンクリート壁をなしているという構造のため、外部からの進入方法は極めて限られた状況にあつたところ、被告人坂口らは、このような構造の山荘内各階に畳、家具などを用いてバリケードを築き、侵入後間もない一九日午後四時頃、追跡して来た永瀬洋一郎巡査を認めると、見張りに当つていた坂東が同巡査を狙撃して負傷させたのを手始めとして、ベッドルームの天井板を切り抜いて屋根裏への通路を作り、食糧類をベッドルーム内に集め、ベッドルームを拠点にして、被告人坂口が泰子を監視し、ほか四名の者らが交替で配置につくという態勢を組み、これに対し人質の安全な救出を第一として毎日幾度も繰り返して被告人坂口らの自省を求め人質解放と投降を促す警察当局の勧告や警告、また泰子の安否を気遣うその夫や両親らからの呼び掛け、更には投降、人質解放を呼び掛ける被告人坂口ら犯人の父母などの説得を一切無視し、被告人坂口ら犯人の実態を把握しようと特型車などを使い山荘に接近、偵察を試みる警察官に発砲をもつて答えるのみで、その間にも屋根裏及び三階の玄関付近などに合計七個の銃眼を設け、また殺害の実効を高めるため砥石に穴を穿つて鋳型としこれに散弾を入れ熱を加えて溶かし固めるという方法で直径一センチ前後の不規則な形をした改造弾丸を作り、これらを含めて銃眼などから山荘を包囲している警察官らに対し、被告人坂口ら五名の者が意を相通じて銃撃を加えるなどした。

二月二二日泰子の身代りになるために来たと被告人坂口らに呼び掛けて山荘玄関付近に来た田中保彦に対し、被告人坂口は同人を警察官と思い込み背後からその首筋を狙つて拳銃で撃ち、弾丸を後頭部に命中させて、その後三月一日に死亡させ、次いで特型車の後ろにあつて山荘偵察のため近づいた三村哲司巡査部長に向い吉野が散弾銃を発砲して命中させて傷害を負わせ、また負傷した三村巡査部長を救護中の小林定雄巡査に対し坂東が狙撃して負傷させる所為に出るなど、被告人坂口らが二月二七日までの間に発砲した弾丸は確認されたものだけでも約八〇発に達し、これによつて右警察官らの傷害のほか特型車、楯などの装備類を損壊して抗戦の姿勢を取り続けた。

これに対して警備当局は特型車を使つて山荘に接近し犯人の実態把握及び人質の安否を確認するための偵察行為に出るほか、発煙筒、催涙ガス弾、放水、投石などの作戦行為を取つて人質救出と犯人逮捕の機を窺つていたものの、被告人坂口らが発砲によつて抗戦の姿勢を示すほかは、人質の安否について確認する手だてを全く拒否するという状況にあつたため、事件発生以来九日を経過し、その間監禁され続けている泰子の心身が極限に達しているとみられ、また世論も一刻も早い救出を強く望むというなかで、最後の局面に立ち至つたとの判断から、二八日午前一〇時を期して強行手段による人質救出及び犯人逮捕に出ることを決定した。

同月二八日警備当局は強行開始に当つて人質救出の確保、犯人全員の逮捕、受傷事故の絶無を重点にして午前八時五一分、九時二五分、同五五分の三回にわたり投降勧告及び強行検挙の事前警告を重ねたうえ、午前一〇時決行を下命し、同時に実力行使に入る旨の警告を行ない、同一〇時三〇分過ぎ頃山荘に向けて放水と催涙ガス弾を打ち込んで被告人坂口らの銃撃に対抗すると共に、鉄球をもつて山荘玄関付近の壁面を打ち毀し始め、一一時五分頃玄関、三階便所付近の壁を破つて、一一時二四分頃突入部隊が一階に突入し、同三〇分頃一階を制圧した。この間に放水による破壊の指揮に当つていた高見繁光警部に対し午前一一時二七分頃屋根裏からの散弾銃による銃撃によつてその左上眼瞼部に改造弾丸を命中させ、同警部を午後零時二六分頃死亡させた。午前一一時四二分頃機動隊員は山荘西側非常口を破壊し厨房に突入してバリケードを撤去し、同四四分頃一階から二階に進行を開始して午後零時二分二階部分を制圧したが、右の間の午前一一時四七分頃土塁から出て山荘に突入しようとした大津高幸巡査を屋根裏から散弾銃で銃撃して負傷させ、次いで同五四分頃第二機動隊を指揮していた内田尚孝警視が山荘内を視察しようとして楯から顔を出した際、坂東が屋根裏からライフル銃で狙撃してその左上眼瞼部に命中させ、同警視を午後四時一分頃死亡させ、また厨房に突入後午前一一時五六分頃上原勉警部がベッドルーム付近の状況を偵察しようとして楯から顔を出したところを吉野、加藤倫教が散弾銃で銃撃していずれかの弾丸がその顔面に命中し負傷させた。午後零時三三分頃機動隊が銃眼のある屋根裏の道路側を破壊し、次いで威嚇射撃による犯人制圧の命令があつた後、午後零時五〇分頃被告人坂口は南の山腹で取材活動中の信越放送カメラマン小林忠治に向い、これが報道関係者であることを承知のうえ拳銃を発射して命中負傷させた。機動隊は山荘一、二階を制圧した後その活動を一時中断していたが、その頃爆弾投擲の機会を窺つていた被告人坂口は、吉野からの連絡などで厨房に警察官が居ることが分かると、午後二時五〇分頃坂東、吉野の援護の下に厨房カウンターに近づき、付近の天井にかねてあけてあつた屋根裏への穴めがけて手製爆弾を点火のうえ投げ込み、これを厨房天井の破れ目から厨房内に落下、爆発させて中村欣正巡査部長、牧嘉之巡査部長、酒井誠巡査、人見吉昭巡査及び平井益夫巡査を負傷させ、更に午後三時五八分頃には山荘南東側路上の土塁から山荘を偵察していた三上博次、須藤秀雄両巡査に対し相次いでベッドルーム入口付近から被告人坂口、坂東、吉野のいずれかが散弾銃で狙撃してその弾丸の命中により負傷させた。

午後四時半過ぎ機動隊は拠点となつているベッドルームに向けて制圧行動を開始し、威嚇射撃のもとにベッドルーム入口付近のバリケードを撤去し壁を破つて進出中、午後五時二〇分頃廊下からベッドルーム内に突入しようとした鬼沢貞夫巡査に対してベッドルーム内から被告人坂口、坂東が銃撃しその眼部に命中させて負傷させ、同四八分頃談話室からベッドルームに向けての放水で壁が破られ、同五五分頃目黒成行巡査部長がベッドルーム内を窺つていたところを被告人坂口、坂東、吉野が狙撃しその顔面に命中させて傷害を負わせ、更に午後六時一〇分頃ベッドルーム内に突入して被告人坂口らを逮捕しようとした遠藤正裕巡査の眼部を坂東が至近距離から拳銃で狙い発砲して負傷させるなどしたが、午後六時二〇分機動隊員は被告人坂口、坂東、吉野、加藤倫教、元久を次々に逮捕すると共に泰子を救出した。

警備当局が二八日に使用した発煙筒一二個、催涙ガス弾一四八九発、放水一四八・五トン、拳銃一六発を数え、これに対して被告人坂口ら犯人側の発砲は午後五時頃までに確認されているものが四〇発、それ以後ベッドルーム内外において五回位にわたり数発ないし二〇数発ずつの乱射があり、そのほか手製爆弾一個が使用された。また同日配備された警察官は一六三五名を数え、医師四名、看護婦七名及び救護班一八名、取材報道関係は、新聞社一六社、ラジオテレビ二〇社、雑誌社一六社、記者の数にして約一三〇〇名、取材ヘリコプター一二機というものである。これを一九日以降二八日まででみると、配備警察官の延人員は一万二〇〇〇名を越え、発煙筒九九、催涙ガス弾一六一五、放水一五三・五トン、拳銃二二発、警備車両延ベ一一三台、その他の車両延べ一九七台、ヘリコプター一ないし三機であり、被告人坂口らの発砲で確認されているものは百数十発、そのほかに約五回にわたる数発ないし二〇数発ずつの乱射及び手製爆弾の投擲一個が数えられる。

以上の如き被告人坂口らの犯行により、死者三名、また負傷者は原判示分のみで一六名にのぼり、泰子は一〇日間監禁されるという人的被害のほか、物的損害として山荘は破壊され、特型車、楯など多数の装備、資器材の損壊を生じたものであつて、被告人坂口はこのような多くの人達、多数の物品についての被害に対する責任を共犯者と共に負うべきものであり、特に本件犯行を主唱し指揮した者として最も重い責任を問われるべき立場にあるものといわなければならない。

先ず牟田泰子監禁についての責任をみるに、被告人坂口は自ら言い出して二月一九日午後三時半頃山荘に不法侵入した後、直ちに被告人坂口が銃を突きつけベッドルームに連行して縛りつけたうえハンカチをかませて口を塞ぎ、解縛と退去を求めるのを無視し拒否して翌二〇日昼頃まで緊縛を続け、そのあと解縛したが、被告人坂口が泰子の傍から離れる必要のあるときは再び同女を縛るなどして、依然として被告人坂口の監視下に置き、また二〇日以降泰子の夫や両親などから安否を気遣う呼び掛けがあつたのに対して顔だけでも見せて応えたいという泰子の要求を、内部の状況が分るということを理由に拒否し、用便の際にも腰に縄をつけて連れて行くという有様であり、死にたくないという泰子に、断固中立を守ることを求めたが、それは大声を出さない、電話をかけない、逃げない、顔を出さない、という如きいずれも自らの利益のみを考えた身勝手な要求を強いたもので、このようにして一〇日間にわたりベッドルーム内に監禁し続けたため、同女は食事をする気も起こらず、僅かな飲み物や果物類で耐えるという状態であつたところ、更に二八日には苛烈なベッドルーム内の状況の中に留め置かれることとなつたのであつて、以上に照らすと、泰子の受けた精神的及び肉体的な打撃は甚大なものがあるといわざるを得ず、この責任は被告人坂口に帰すべきものである。しかも、あさま山荘における被告人坂口らの犯行は、泰子を監禁していたことによつて警備当局の対応を困難ならしめ、同女の安全な救出を第一の基本方針とせざるを得なかつたことから解決が長期化し、被害を増大させるに至つた点も看過できない。この間警備当局は被告人坂口らに対し繰り返し人質の解放と自らの投降を勧告し説得を続けており、また吉野からも泰子を解放し、自分達の立場を明らかにして闘うことを提案したが、被告人坂口はこれらを握り潰したのみならず、かえつて警備当局が犯人制圧に際し人質の安全を配慮して最後まで銃の使用は威嚇射撃にのみとどめるという謙抑さを貫いているのに対して、それを知りながら狙撃、乱射の挙に出ているもので、このような所為をもつて革命戦争を闘つたものであるという所論は到底採ることができない。

次に被告人坂口は、田中保彦を殺害し、小林カメラマンを銃撃したうえ、更に爆弾を投擲して五人の警察官を一挙に負傷させているのであるが、うち田中保彦について、同人を警察官であると思うに至つたとしても、同人は被告人坂口らに対してなんら危害を及ぼす態度を向けていないのに、至近距離で、しかも背後から首筋を狙つて拳銃を発砲し、弾丸を後頭部に命中させて殺害したものであり、また小林カメラマンについても、被告人坂口はこれが報道関係者と知りながら、単に報道記者の態度やそれまでのラジオ報道の内容が気に入らないとの理由で無差別的に局外者の同カメラマンを銃撃したのであつて、右両名に対する被告人坂口の犯行はなんら理由のないものというべきであり、弁解を入れる余地はない。更に手製爆弾の投擲も卑劣である。犯人制圧に当る警察官側は銃の使用は威嚇のみで被告人坂口らには直接向けられておらず、従つて被告人坂口にとつて銃撃されるなどの危険はない状況のもとで、かえつて被告人坂口らの銃撃のため生命の危険に曝されている警察官に対し、爆弾という一時に多数の者を殺傷し得る凶器を殺害の意図のもとに天井の穴に投げ入れ、天井裏を転がせて厨房内の警察官に頭上から落下、爆発させ、殺害は未遂に終つたとはいえ、これによつて一挙に五名もの警察官が負傷するに至り、なかでも中村欣正巡査部長は治療に長期間を要する傷害を負つたうえ、なお後遺症に悩むという状態にある。また、ベッドルームからの乱射も同様に凶悪というのほかなく、これによつて三上、須藤、鬼沢各巡査及び目黒巡査部長が負傷し、うち三上巡査については銃弾残留を生じたままであるが、これら警察官に対する銃撃は被告人坂口も加わつて犯行に及んだものであり、共犯者の犯行によるとの弁明は許されないところであつて、その責は被告人坂口に帰すべきものといわなければならない。また、直接には共犯者の銃撃によるものではあるが、犯人側からの銃撃の中で、人質の生命を守り、これを救出しようとして行動中、凶弾に斃れた高見繋光警部及び内田尚孝警視の殉職は痛ましく、かつ崇高である。更に大津高幸巡査は左眼失明し、遠藤正裕巡査も右眼失明に至り、上原勉警部は顔面に散弾粒が射入されたままとなつている。しかも被告人坂口は坂東らの発砲により警部と警視が重傷を負つたとのラジオ放送を聞くと、その内容を他の者に伝え、今何人やつたから頑張れという風に言つて元気づけているものでもある。これら殺傷された警察官らはすべて人道と社会秩序維持のために献身したが故に被告人坂口らのいわれなき攻撃に遭い、その結果、顕彰されるべき職務遂行によつて生命を失い、また人生を送るうえでの重い負担を背負うに至つていることは、被告人坂口の犯情を考えるに当つて軽々に酌量を認めることができない所以である。

所論は、被告人坂口らの警察官に対する闘争は、警察官の包囲の下では抗戦するほかなく、また山岳ベースで死亡した同志に対して抗戦が償いになるとも考えたこと、更には不当な政策に反対しこれを阻止することが人民大衆の利益を体現し大衆との絆を回復するものと信じて行なつたものであり、また被告人坂口の所為を個別的にみるとき、同被告人の発砲による殺傷は田中保彦及び小林記者に対するのみで、管理人の妻に対しても同女の自由を完全に束縛したというものではなかつた旨をいうが、自らの逮捕を免れるためなんのかかわりもない一女性の生命を楯にして、これに対し人質救出及び山荘内に立て籠もる被告人坂口らを犯人として制圧検挙すべく活動している警察官に向い発砲し手製爆弾を投擲するというが如き所為をもつて広く人民大衆の利益を体現するものであるなどという所論は到底採用の限りでなく、また人命尊重の見地に立つて警察当局による再三の勧告や警告、父母らからの説得が繰り返されているなかで前示の犯行に及んでいるのに徴すれば、抗戦のほかなかつたとか山岳ベースで殺害した者への償いのためであるという所論も採用できず、更に前叙のように被告人坂口が、自ら主唱かつ主導して山荘内からの徹底抗戦を打ち出し、拠点としたベッドルーム内においてすべての状況を逐次把握しつつ他の者らを指揮しかつ督励して警察官らに対する殺害行為を推し進めて行つた者であるのに照らすと、被告人坂口は共犯者の所為によるものをも含めてそのすべてにつき厳しく責任を問われるべきものであつて、所論のいう如き酌量の余地は見出し難く、また管理人の妻に対する被告人坂口の前叙の如き対応に鑑みれば、同女の自由を完全に束縛したというものではない旨の所論も採用できない。

以上の如きあさま山荘に不法侵入するに至つた経緯、犯行の態様、被害の状況並びに社会に及ぼした影響に徴すれば、被告人坂口は本件につき厳しくその責任を問われるべきものであつて、同被告人が原審及び当審を通じて右犯行に及んだことの誤りを明らかにして反省の情を披瀝し、母親共々被害者に対して深甚なる謝罪の気持を伝えるなどしていることを考慮しても、その刑責は極めて重大であり、原判決が被告人坂口の田中保彦、高見繁光、内田尚孝各殺害の罪につき所定刑中いずれも死刑を選択したことに不当とすべきところはなんら存しないものといわなければならない。

九  結語

以上被告人らの本件についての刑事責任を各事件毎にみて来たのであるが、更に罪となるべき事実のうち主要なものを中心に総合して考察することとする。

(一) 被告人永田について

被告人永田は、真岡の銃等奪取事件をどう思うかにつき、「確かに間違つた闘争である」と供述する反面で、「銃を握るためにはどうすればいいのかという問題を突きつけられた闘争でもあつたわけであるから、単に間違つていたといつて済む闘争ではないと思つている」と述べ、武装闘争につき、「武装闘争によつて情勢を切り開こうとしたが、そういう武装闘争は間違つている」といいながら、「色々の闘争の中で武装闘争は当然に起こるものであるし、今後も起こるものと思つており、そういう闘いも必要なことだと思つているから、連赤の武装闘争の経験の総括も十分にして今後の闘争に生かして行かなければならないと思つている」と述べているが、その供述は自らが最高首謀者として敢行した銃等強奪が銃砲店一家の者に与えた物心両面にわたる深刻な打撃や社会に及ぼした影響などに対する刑事責任をどう考えるかというよりも、主として被告人永田らのいわゆる革命運動との関連でこの銃等強奪をどう意味づけるかという点の反省であり、同被告人が真に自己の刑責を自覚しているものとはいえないところである。

また早岐、向山殺害について、これが被告人永田の主唱にかかる発議と同被告人を含めた共同謀議によつて実行計画が練られ、向山殺害については被告人永田自身電話連絡などに当り実行されたものであること前叙したとおりであるにも拘らず、被告人永田はこれが軍担当の寺岡らにその責任の殆んどがあるようにいい、被告人永田自身はその報告を受けたこと、電話連絡をしたことに止まると述べるほか、前叙の如く両名殺害の決定に当つて「牢獄でやつて行けるかしらね」と発言するに至つた経緯につき当審では原審で述べたところを後退させて責任のがれとみられる供述をするなどして、これまた自己の刑責について真の自覚に乏しいといわざるを得ない。被告人永田はまた、「向山、早岐さんの二人が今この世の中にいないことについて一寸言葉に表現できない感じがするが、私は自分が生きていることに先ず不合理を感じる、一体それでいいのかという気持にならざるを得ない」というものの、「私が生きていることから出発しなければならないと思う、だから色々な困難もあるし、病気のこともあるけれども、自分の生を大切にして繰り返し向山さん、早岐さんのことを考え、ああいう誤りを二度と日本の革命運動の中でしないようにして行きたい、ということしかいえない」と述べていて、自己の犯した行為についての刑事責任をどう考えているかというよりも革命運動の教訓にしたいとするもので、両名の生命を自らの刑責に帰すべき所為によつて奪つた者の言葉にしては果してどれだけの責任を感じているのかについて琴線に触れるものがない。所論は、右両名の殺害は革命の利益を優先させる考え方や時代が処刑を求めるようになつているとの認識がその背景にあるというが、離脱した早岐、向山については当初被告人永田の提案した牢獄監禁案が採用されていたものであり、かつその案自体についてさえも、メンバーの中から思想問題を暴力で解決するのは間違つているという反対が強く出された経緯のあることが明らかであつて、殺害の背景を所論の如く見て犯情を酌むべきであるとする論は採ることができない。

進んで、山岳ベースでの一一名殺害と一名の傷害致死の事件については、被告人永田は、その党内における地位、活動の経過に徴すれば、自らの決意とこれに基づく対処の方法を講じることによつてメンバーを殺害するが如き事態に至るのを回避し得る立場にあつたのに、前叙考察の経過のもとに各犯行に及んだもので、その刑責は大きい。

この山岳ベースにおける殺害等は森と被告人永田が「我々」となつて総括要求の名のもとに加えた暴力によるものであること明白でありながら、被告人永田はその自覚を欠いており、被告人永田が被害者となつた者らに加えた言動について供述するところも他の証拠に照らして採り得ない弁解が多く、被告人永田自らが重大な責任を負うべきものであるのに、その多くを森に帰着させようとする態度がみられるのは遺憾であつて、真に自らの刑責を自覚しているとは到底いえない。前叙したように、被告人永田は迦葉べースにおいて大槻を殴打すべきことを唱えるに当り、その理由として大槻の被告人永田を見る目付きが反抗的であることを挙げ、自分だけを反抗的な目付きで見ることは反革命でしかない旨言つているが、これは被告人永田の本件山岳ベースにおける立場を象徴するもので、被告人永田の思い上がりを如実に示すものであると同時に、本件一連の暴力的総括要求なるものの性格を窺わせるに足りる言動であり、このようなところから発した総括要求によつてメンバーの殺害等に及んだのに徴すれば、その刑事責任を量定するうえで、革命志向を持つとか、共産主義化を実践するためのものであつたとかの故をもつて酌量されるべきであるとはいえない。また、被告人永田は、榛名ベースに来た森が尾崎、小嶋を批判するのを、始めの頃はかばう態度を示し、或は小嶋死亡後三名も敗北死するということがあるだろうかと呟き、加藤が総括できないとみなされた直後の指導部会議で被告人永田自身がああいう風に縛られて総括を求められたら総括できるかどうかわからないと言つて森からたしなめられ、寺岡処刑後その位置づけを全体会議で説明するに際し自信がないと言つた旨供述しているが、被告人永田のメンバーに対する前叙した一連の批判、追及の態様に照らすと、このような言動があつたからといつて山岳ベースでの犯行への被告人永田のかかわりが追随的であつたとみることはできないところである。

そして被告人永田は当審において、山岳ベースでのこれらの殺害等の犯行について、自らの病気の苦しさから被害者らの苦しさを思うとか、連赤問題がどういうことか考えて一生懸命生きていくことが最低限の債務だとか、病気の手当を受けて人間同志のふれ合いを感じたり総括したりして行けるのが嬉しい、髪を切る苦しさも共有できたとか、若い人の生を奪つたことがどんなことか、そういうことをすごく感じるなどと供述しているが、多くの者に苦しみを与え生命を奪つた者の言葉にしては訴えるものが少ない。

而して一三名の者を殺害し一名の者を傷害致死に至らせた犯行のうち、早岐、向山両名の殺害は被告人永田自らの提起にかかり、他の者らの殺害についても前叙の如く被告人永田は森に次いで責任が重い。殊に死刑を宣して殺害した寺岡及び山崎については重大であつて、その詳細は前叙したところである。寺岡処刑に至る追及、批判は同人を分派主義と規定したところにあるが、その素材は被告人永田自らまたは同被告人から促がされて吉野が迎合的に提供したものであり、寺岡追及をCCの内だけでなくメンバー全員で行うことを提案したのも被告人永田であつて、その追及の場で寺岡の問題点を逐一並べ立て、メンバーを促がしてその怒りを煽り、暴行も殴打の程度にとどまらず刃物を使つて追及することや更には寺岡を死刑にすることを森と共に決め、その決定に直ちに反応を示さないメンバーを促がして異議なしとの発言を引き出しており、また山崎の処刑は寺岡の処刑に引き続いてのものであるところ、被告人永田は森に同調して被告人坂口に山崎をナイフで刺すように促がして決心させ、処刑への方向を決定づけている点は重大である。所論は被告人永田が森の安易な山崎処刑の方向を止めさせるため偽の死刑宣告を提案し、いつたんその処刑は回避されたのに、その後森が追及を再開して死刑宣告に至つた旨をいうが、死刑を装つて追及したのは前叙した「(八)山崎順について」の項に述べた経緯によるもので所論は採用できない。

所論は、被告人永田は一四名の者を死亡させた自らの過ちを自覚し、これを総括してその死を無駄にしないように教訓化することを自らの責任として課して頑張つている、被告人永田を生かしてその責任をとらせるのが真の責任のとらせ方であるという。しかしながら本件で被告人永田に問われているのは刑事責任である。被告人坂口が銃奪取、早岐、向山殺害、山岳ベースでの殺害などの所為につきその非を認めているのと対比すると、被告人永田のそれは琴線に触れるものがないこと前叙のとおりである。また革命運動のために教訓化するということと刑事責任を課すということは次元を異にする問題である。殊に本件は前叙した如く生やさしい刑責を問えばすむ性格のものではなく、教訓化したが故に刑事責任を果したということにはならない。

以上、被告人永田は犯行へのかかわりにつき真摯な反省を示しているとはみられないうえ、被害者に対する慰藉の方途も現実に講じられてはおらず、森との共謀による山岳ベース内での殺人などのほか、早岐、向山両名殺害をも含むものであることを考えると、その刑責は重大であつて、被告人永田の現在の健康状態を考慮しても、同被告人につき酌量減軽を相当とする事情があるとは認められないところであつて、被告人永田を死刑に処した原判決の量刑をもつて不当であるとはいえない。

(二) 被告人坂口について

被告人坂口は昭和四四年九月四日原判示第一の羽田空港突入に及んで逮捕、勾留され、航空法違反などの罪により公訴提起されて審理中、同年一二月二四日保釈になつたが、翌四五年二月三日懲役七年の求刑を受け、その刑事責任を厳しく追及されて自らの所為の重大さにつき自戒し反省すべき機会を与えられていたのに、大学の先輩である川島豪に傾倒するの余り実力による同人の奪還を企てたことからその後の犯行に次々にかかわつて行く事態を自ら招くに至つたものであり、これまで考察してきた被告人坂口の党内での地位、各犯行へのかかわりの態様、被害の規模及びその及ぼした影響に照らすと、被告人坂口の刑責はまことに重大なものがあるといわざるを得ない。

所論は、被告人坂口が早岐、向山両名の殺害を決定するに当つて苦悶、逡巡し、また両名に口止めさせる方向で殺害の回避を考えてみたこと、処刑された寺岡は早岐、向山殺害にかかわつた者であること、あさま山荘で被告人坂口が銃撃した田中保彦はその行動自体衝動的でしかも警備当局の警戒線を突破して近付いたものであること、高見警部を銃撃した者が共犯者のいずれであるかが特定されるに至つておらず、また内田警視をも含めてこれら二名の死亡した警察官の殺害につき被告人坂口が直接手を下したものではないことなどを挙げて、被告人坂口に酌量すべき事情があるというが、被告人坂口が早岐、向山両名の殺害を言い出した被告人永田の心情を知りながらこれに同意し、その後犯行に積極的にかかわつたことは前叙のとおりであり、寺岡の処刑は同人が早岐、向山両名を殺害したこととは全く関係のない前叙の事由によるものであつて、被告人坂口が右寺岡の処刑にかかわつたことについての犯情を考えるに当りなんら酌量の事情となるものではなく、田中保彦に対する銃撃については、同人が被告人坂口らの犯行で人質状態におかれた泰子の身代りになろうとして被告人坂口らに訴え出たものであり、しかも被告人坂口らに対し危害を加えるという様子はみられなかつたのに、卑劣にもその背後から至近距離にいる同人の首筋を狙つて拳銃を発砲したという冷酷な所為に及んでいるものであり、また被告人坂口は前叙の如く共犯者らの狙撃によつて警部と警視が重傷を負つたとのラジオニュースを聞くとその内容を他の四名の者らに伝え、今何人やつたから頑張れというふうに言つて元気づけるなどしていてあさま山荘での最高責任者としてその責任を免れるべきものではないのに徴すると、右所論はいずれも採用できない。

こうしたなかにあつて、被告人坂口が、被告人永田の遠山批判を行き過ぎであると思い、山田を解縛し同人に対して命を助ける旨を言つたほか、新党結成の際の川島との訣別に至つた状況、遠山死亡の際に示した被告人永田への非難の心情、山崎刺突に至つた経緯など、森及び被告人永田の言動に批判的であつた事情を述懐するところは、被告人坂口の前示した犯行についての刑責を按じるに当つて考慮し得ないものではない。更に、被告人坂口の反省の情には見るべきものがある。羽田空港乱入事件については、なお正当性を主張するのは遺憾であるが、真岡での銃等奪取、早岐、向山両名の殺害、山岳ベースでの殺人等につき殺意を含めていずれもその非を認め、また自らの主唱し主導した警察官らに対する徹底抗戦についてもその犯した罪の深さを自覚し、かつ武装闘争路線は誤りであつたことを潔く自認して、国外からの脱出の呼び掛けにも応ぜず、自らの所為を逐一明らかにし、当審において原審で供述しなかつた被害者に対する言動を付加して自己の犯行を更に明確にするに至つているほか、被害者がそれぞれに送つたであろう有為な人生を無残にも断つた自らの罪の大きさに思いを致して深く反省の情を披瀝すると共に、被害者、その遺族に自らの反省の情を綴つた謝罪の書簡を送り、また世間の目に耐えてひたすら我が子の罪業を詫びる母親共々弔意と慰藉の気持を述べ、弁償の意のあるところを表わしているものでもあつて、その心情を訴える被告人坂口の真摯さは疑う余地のないところである。

しかしながら、如上の点、そのほか所論が縷々主張するところをすべて斟酌しても、被告人坂口が一三名の同志の殺害にかかわつたこと自体重大であるうえに、あさま山荘における銃撃によつて田中保彦、高見繁光、内田尚孝の三名殺害という結果を惹起し、更に一六名に対する殺人未遂に及んだものであることを考えると、その罪責は極めて重大であり、所論が指摘する共犯者の坂東との対比についても、記録によると、同人は原審において被告人らと併合審理中、国外に出たため、昭和五〇年一〇月九日の原審第六五回公判において弁論分離となり、以後別件として原裁判所に係属したままの状態で経過していることが明らかであつて、これをもつて被告人坂口につき酌量減軽すべき事情とはいえず、被告人坂口を死刑に処した原判決の量刑をもつて、これが重過ぎて不当であるということはできない。

(三) 被告人植垣について

被告人植垣は、弘前大学本部を封錯した建造物侵入の罪により昭和四五年一〇月一三日懲役六月、執行猶予二年の言渡を受けたのに、重ねて本件各犯行に及んだもので、その犯行の態様は前叙の如く所謂M作戦については自ら主導し、また山岳ベースでのメンバーに対する殴打に際しては極めて積極的であり、しかもこれらの犯行は森の指示、命令によるとはいえ、被告人植垣自らの武装闘争ないし暴力を肯定する志向にも基因する面が否定できず、就中、寺岡及び山崎に対する被告人植垣の各所為は冷酷にしてかつ残忍であり、被告人植垣のこのような一連の犯行を通じてみるとき、同被告人の刑責は重大であるというべきであつて、被告人植垣が大槻節子の母親に対して自らの心情を述べた手紙を送つているほかには被害者に対して慰藉の方途を講じた形跡は見当らず、また現在の心境について、共産主義化の論理の間違いを認めたうえで、「私自身に問われていることは死んだ同志達と共にあり続けることができるような生き方ではないか、進藤さん、山崎さん或は大槻さんが持つていた問題意識をもつてこたえて行くことが彼らの生を生かして行く方向ではないかと考えた、そしてそれまでの私の生き方の上での致命的な欠点として単なる兵士として革命に貢献しようとしていたことに気がついた、一二名の同志を防衛することのできなかつた私自身の自己批判としてなして行くべき方向は革命の問題に対して正面から取り組むことであり、一二名に対して顔向けできないような生き方だけはしたくないということである」と述べているが、これは主として自らのこれからの生き方についての考えをいうもので、被告人植垣自身が同志殺害に加担したことについての反省の弁としては酌むべきものがないのに微すれば、更に厳しく処断されるべきであるとの検察官の所論には傾聴すべきものがあることを否定できないところである。

しかしながら、被告人植垣は前叙の如き犯行へのかかわりにも拘らず、党内においては一兵士として処遇されていたものであり、また赤軍派内での序列においても青砥の右に出るものではなく、これに対し革命左派内で指導部に属し、後の新党においてもCCであつた吉野が、早岐、向山両名の殺害を始めとして、山岳ベースでは寺岡、山崎に対する絞扼を含めすべての犯行に関与し、更に山荘での銃撃にもかかわつていながら無期懲役に処せられているのを考えると、被告人植垣を懲役二〇年に処した原判決の量刑が軽きに失して不当であるとまでは言い切れないものがある。一方被告人植垣及び弁護人が右刑をもつて重過ぎるというところは前叙したところに照らして到底採用できず、また原審での審理の経過に徴すれば、原判決が原審での未決勾留日数中一五〇〇日を本刑に算入したことをもつて不当であるということもできない。

(四) 所論は被告人らの量刑につき、当時の時代の中で被告人らが抱いた強い革命志向が本件犯行の背景にあることを考慮すべきであるという。そしてこの点については原判決もその犯行に至る経過の中で触れているところであり、その意味で時代の影響や革命志向が背景としてあつたことは窺い得るところであるが、しかしながら、それらがあるとしても犯行自体が正当化されるものでないことは既に指摘したとおりであり、またこれらを犯情としてみても、これまでに判示した如く、個々の犯行の態様からして、所論のいうところをもつて酌量減軽を相当とする事情として採ることはできず、被告人らに対する原判決の量刑が時代の影響や革命志向の点を考慮しても不当に重いものであるとは到底いえないところである。

以上、被告人永田、同坂口を各死刑に処し、また被告人植垣を懲役二〇年に処し、原審における未決勾留日数中一五〇〇日を右刑に算入した原判決をもつてこれが不当であるということはできない。検察官及び弁護人、被告人らの論旨はいずれも理由がない。

第四  死刑違憲の論旨について

所論は要するに、死刑制度は憲法前文の民主主義、平和主義の大原則及び同法一三条、三一条、三六条に照らして憲法の認めていないところであり、死刑制度存置の理由としての威嚇的、予防的効果はなく、世界的にみても死刑制度廃止の動向にあるのに、本件につき死刑を科した原判決は憲法に違反する、というのである。

しかしながら、死刑がいわゆる残虐な刑罰にあたるものではなく、死刑を定めた刑法の規定が憲法に違反しないことは最高裁判所の判例とするところであり、また死刑の適用が慎重に行われなければならないこと勿論であるが、被告人永田、同坂口の前叙の如き犯行の罪質、態様、結果の重大性、殊に殺害した被害者の数、被害感情、社会的影響に照らせばその罪質は誠に重大であり、犯行後の事情、被告人らの身上、経歴、健康状態など一切の情状を斟酌しても死刑はやむを得ないと認められるところであつて、原判決が同被告人らを死刑に処したことに所論のいう如き憲法違反は存しない。論旨は理由がない。

よつて刑訴法三九六条により本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用につき同法一八一条一項但書により被告人らに負担させないこととして、主文のとおり判決をする。

(裁判長裁判官山本茂 裁判官佐野昭一 裁判官渡邉一弘)

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